2017年4月21日金曜日

ほしのいえの活動 野宿者におにぎりを配る

つながりあう

中村訓子Nakamura Noriko
ベリス・メルセス宣教修道女会
ほしのいえのお米置き場が空っぽになりました。
明日の炊き出しのためにお米屋さんから購入するしかないと思い、扉を開けると宅急便の車が来ました。

二本松の農家さんから3袋のお米とジャガイモと紫玉ねぎと味噌が届きました。 そして、町田市の支援者からも50キロのお米が届きました。そして今度は電話が鳴り、 「今年もほしのいえ用に新米400キロが収穫できたから贈ります」と知らせです。また、友人が、古米だけど600キロの玄米があるから使ってと 連絡があったので電話してくださいと、千葉の農家さんが取り次いでくださった。

いつもコメの在庫が切れるとフードバンクに注文して受け取っていた。 ところがフードバンクも在庫が不足している事がわかり、五目御飯のアルファー米でお弁当を作ろうか、 または購入しようかと悩んでいたその日の出来事でした。

お握りに使う、焼き海苔・梅干・花かつおや塩など定期的に支援を受けています。また、 味噌汁に使用する、味噌・煮干し・乾燥油揚げも定期的に支援くださる方によって支えられています。 また、小松菜やジャガイモ・サツマイモ・かばやき・人参・ネギ、玉ねぎ・蕪や大根など季節の野菜や果物が届きます。 91年に初めて以来続いている炊き出し風景です。

「ありがとう」の言葉と笑顔に励まされて、つながっている”いのちの結び合い”です。

その炊き出し日のお握り作りを25年間支えて下さっていた折田さんが、2013年5月3日に突然倒れ、病院をぐるぐる回りされた末に2014年12月4日に 亡くなった。 ずいぶん関係機関と戦ったけれど、何も出来なかった。遺骨を引き取れたことが、せめてもの慰めだった。その折田さんはまだ、ほしのいえの炊き出しを棚の上の仮祭壇から遺骨のまま見守ってくれている。その後亡くなった磯さんの遺骨とともに、山谷のお寺に納骨する準備が整ってはいますが・・・。

ほしのいえ作業所には生活保護を受給しながら、仕事や病院に通い、自分自身の尊厳と自信を回復して自立の道を歩んでいる青年男女が参加しています。

行政の自立支援は万全ではありません。必要な時に必要な支援があれば、また、その適切な支援を知ることが出来れば、回復の足掛かりになれる。「適切な」が「不適切な」切り捨て支援では、炊き出しがゼロになることはまだありません。

先日も作業が終わり夜の商店街を歩いていて、30歳くらいの青年が、びしょ濡れ状態でぺちゃんこになった電柱に寄りかかっているのに出会った。「待っていて」と言ってお弁当を作りに戻り、衣類と棉毛布と、濡れて泥だらけになった顔や足を拭くための濡れタオルとともに「路上脱出ガイド」という小冊子を渡して、明朝また来るからと話し別れた。その後会っていないが、どうされたかと心配しています。

清貧の誓い

主は「全てを売り払って貧乏人に与え、私の後に従え」と命じられました。ところが教会が組織となるにつれて巨大な建物を所有し、金銀も蓄えるようになります。

カトリックではこれまでこうした教会に対する批判が繰り返し行われてきました。しかしそうした運動もやがて自分自身が第二、第三のバチカン化していきました。

メルセル会では修道女たちは例えば校長なら高い給料をもらい、事務員なら安い給料をもらいます。しかし、それぞれが受け取った給料はプールします。 そこから各自が必要に応じて支払いを受けます。地位の違いはあっても皆、平等です。 私がほしのいえの活動ができるのも会に所属しているからこそ可能となっています。

会に寄せられた寄付は全て会の活動のために使い、私は何も受け取っていません。 会計は大事です。私はフードバンクを立ち上げる時、その会計を担当しました。 ほしのいえでも毎年、会計報告をしています。 シスターが会計をやっているということで寄付者も信用してくださっています。 —Sr.(シスター)中村訓子(のりこ)2017.9.21
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私はいかにしてアル中から脱出したか(1)

--鈴木実

これは人生の敗残者がスラム街の生活以下の最低の生活、青カン(野宿)組の仲間入りをし、生きながら完全な廃人として精神病院の一角に身を置くことが当たり前になった男がいかにしてアル中から、更にスラム街からの脱出を果たしたかという物語である。

中卒で社会へ

私は1935年(昭和10年)に大阪に生まれ親元を離れ北海道で育ちました。 かろうじて義務教育だけは終えて世の中に出ました。 朝鮮戦争(1950)が勃発し日本経済は立ち直ろうとしていました。

当時、高校進学率は4割程度でした。高校進学率が8割を超えたのは1970年(昭和45年)ころです。

私が考えていたことは「いつか死ぬかわからないし、親兄弟もいないのだから自分の好きなように生きよう」というものでした。しかしその結果、 20歳代の半分は刑務所で過ごす結果になりました。

好景気でサラリーマン生活

ここで反省してなんとか刑務所にはぶち込まれないですむ生活をしようとしました。東京オリンピック(1964)の景気のよい時期でしばらく普通の会社員として過ごしました。

アル中に

給料の半分を酒につぎ込むようになり(アルコール依存症が進行していたのです)酒のために職を失い、転居、転職を繰り返しました。 完全に酒の奴隷になっていたのです。段々と酒のためにランクが下がり始めたのです。会社員、工員、労務者へと。 アル中も進行していました。暴れて精神病院に強制入院させられたこともありました。

大阪西成へ

ついに大阪西成に入る日がきました(1970)。私が35歳の時です。
給料日にすべての支払いを踏み倒して夜行列車に乗り、海を渡り大阪を目指しました。JR新今宮駅前のセンター(あいりん職安)には地下足袋、七分ズボンの労務者が群れていました。最初は面食らいましたが、立ち飲みで一杯おごってあげた人に現場を世話してもらい割のいい飯場に落ち着きました。でもまた転落が待っていました。

強制入院

またしても発狂状態で強制入院です。ある程度で退院できましたが、酒を止めることはできず飲み続けたために寝小便をしてしまい飯場を追い出されたり、自分でトンコ(逃げ出し)したり、手配師のカオをつぶして段々とケタ落ち(条件の悪い)仕事に行くようになりました。

そして幻覚、幻聴の再発。そして愛隣地区の福祉事務所に泣きついて自分から望んで精神病院に入院させてもらいました。

病院を追い出される

しかし外出の際に酒を飲んでしまい、退院させられました。その後は最悪でした。岡山で働いていて酔っ払い、記憶を失い、気が付いたら西成だったとか、田無(東京)に仕事に来て駅で酔っ払い、気が付いたら大阪でした。

幻聴、幻覚が出て恐ろしくなりまた入院しようと相談しましたが、強制退院の前科がたたって断られました。 ここでは酒を断つことはできないと気付き、東京に出ることにしました。

(続く)

資料
筆者 鈴木実
1977.7.30
なかまVol.7
編集発行 東京都城北福祉センター
(公益財団法人城北労働・福祉センター)

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川のほとりにて

O.M.

スーパー堤防のなかったころ

水面に映るさざめく光、ほのかに潮の香り、そこは幼い私には川辺というより、海辺のように感じていました。荒川の四ツ木付近の話です。
荒川の左岸(上流から見て左) ー父が釣りに行く所です。昭和20年ころ(1945)の荒川は土手の下にはすぐ川が流れていました。 そこの風景は今でも思い出すとなにかさわやかな感じがして夢のようです。

父の荷台に乗せられて

幼い私を父は自転車の荷台に木の箱を付けていつも荒川に連れて行ってくれたのです。

母が亡くなる前にポツリと話してくれました。父が私を箱に入れていざ出発しようという時、母が見送る前で私を箱から落としてしまったそうです。 その話を聞いた時それ以外でも落とされていたかも知れないなと思いました。それにしても無事でなにより。

夢の島まで舟で往復した思い出

荒川の思い出のもうひとつは海まで行ったことです。 小学生の一年生くらいだと思います。坊さんに連れられて荒川を下って行きました。母と一緒で他に二十人位いました。千寿新橋のボート小屋から舟で行ったのですが私は初めての舟。 思っていたより揺れはなかったです。海に出てまず夢の島の横を通りました。ゴミの島です。そこからお台場、大きな島という感じです。上陸して高台から見るとテントがいくつかありました。 キャンプ場です。帰りは隅田川から千住に向かいました。

大きく様変わりした荒川

荒川ほど変化したところはないでしょう。

現在は夢の島が陸続き、夢のようです。浦安もそうです。中学の時、浦安まで自転車に乗って友達四人でアサリを取りに行きました。葛西橋から下流は漁村でした。 埋め立てられた現在とは全く別の場所のようです。かつて海だったところを私は見ているので悲しさを感じるほどです。

バイク好きと本田技研テストコース

荒川上流も下流ほどではありませんが変化しています。 中学の時代、私はバイクに興味があり上流の和光によく行きました。本田技研の工場がある所です。笹田橋を過ぎると土手の下にテストコースがありました。 ホンダのバイクが世界チャンピオンになっていた頃です。私はそこによく行き土手の上から疾走するバイクを眺めていました。土手の上にはお墓が二つありました。テスト中の事故なのでしょう。 現在はもうありません。

そこからさらに先まで行きました。和光を過ぎると土手の上に牛がいるのです。横を通るのが少し嫌で牛と目が合い、なによりも大きいので恐怖でした。 志木あたりになると秩父連山が大きく見えてきます。私は秩父にあこがれました。あそこまで行きたい。それが私がバイク好きになったきっかけです。

荒川との深い縁

現在六十歳を超える私でも志木くらいなら楽に自転車で行きます。荒川とは私にとっては人生の一部です。(March 5,2017)

編集部注:筆者は野宿生活をしています。

荒川の動物

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荒川の動物

この道

いつのことだか、おもいだしてごらん
あんなこと、こんなこと、あったでしょう
うれしかったこと、おもしろかったこと
いつになってもわすれない

最近のラジオから流れてきた思い出のアルバムという曲です。
私も幼い頃、荒川で遊んだことを思い出し
現在の虹の広場は昔は土の面が高く水路があり
ニンジンの畑がありました。

遊んでいて4時ごろになると水が上がってくるので
早く帰らないと大変なことになります。

西新井橋の西は天然プールというのがあって、子供たちがそこで
泳いでいました。私は橋のたもとで西を眺めていました。将来自分が
そこで生活するなどとは少しも感じていませんでした。

試練

それは2002年の4月の私の55歳のことです。
河川に下るとヨシがまだ40センチ位で、草木といえば柳とヨシくらい、
オオブタクサの枯れたので小屋を建てました。

そして7月の10日、まだ大潮という言葉さへ知らない私でしたが
その日、台風がきました。それもその日が大潮の日だったのです。

午後の4時頃になると、どんどん水が上がってきましたので、高台の方へ
逃げました。台風の雨と大潮の水カサ・・・私は自然の力の恐ろしさを初めて
知りました。

町に住んでいたら知らない事実、土手を隔てて違う世界。しかし、この時はまだ
ほんの一部でこれからが未知の世界の始まりなのでした。

動物たち

ある夜、ヨシの中から物音がするのでライトを向けると、青く光る玉が12個
こちらを見ている目だとすぐわかりました。
タヌキだったのです。

タヌキだと知ったのは目のまわりが黒かったからで、最初はキツネかと
思いました。

タヌキ、カニ、ヨシキリ、カメ、ヘビ、虫、特にカニはいたずらでワリバシを
ちょっと置いてあると持っていくので困りました。

動物は臭いに敏感で食べ物の臭いが残っていると何でも持っていきます。
カニがハサミで割りばしを持って行くのを初めて見た時はコッケイでした。

私の幼い頃、千住の家で風呂に入っているとカニが歩いているのを何回か
見ましたが、何を食べているのか不思議でした。ここに来てそれが分かりました。
カニが土を食べているのを知ったからです。カニはサバイバルの長だと分かりました。
 でも温度には弱い。

土から出て来るのは5月の始め、土に入るのは11月頃、パンが大好物。でも
何でも食べる動物です。オオブタクサの葉、ヨシの葉、食べないのはニンニクと
タマネギ、熱い物くらい。

希望

辛いことやいろいろなことがありましたがこの道で良かったと思っています。
他の道では出会えなかった人たち、この素晴らしい愛する人に出会えたことを
感謝しています。

深夜のラジオから流れてきた曲
シンガーソングライターの女性の曲の中の詩
時がもどればやり直せるけれど
あなたの道を行きましょう。
O.M.
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野宿者支援活動 さくらの会(2)

荒川河川敷で野宿生活をしている人々におむすびを配りながら
医療相談活動を始めた ナース佐藤は急死(2002年8月)した。


 活動の中心を突然失ってしばらくは茫然とした。
しかし、シスター勝谷久子(日本援助修道会)とシスター中村訓子

 Sr.Nakamura Noriko(べリス・メルセス宣教修道女会)らが活動を
引き継ぎ、野宿者支援の会「さくら」を2003年に設立した。

修道女は医療については素人なので最初は失敗もあった。
アル中の専門家から「あなた方のやっていることは
アル中のだんなを持った女が言われるままに酒を
買いに走っているのと変わらない」と教えられた。

そこで専門家の指導を受けるために都立松沢病院(八幡山)
に通ってアル中患者にどう対応すべきかをいちから学んだ。

シスター中村は活動の目的を「自立と自己の回復」と
定めた。

いかにしてアル中から脱出して社会生活に戻るか?
シスター中村は2つのことを強調する:

1)「自分が酒に対して完全に無力です」 と認めること。
2)いくら長く断酒に成功していたとしても一滴でも
  飲めば、たちまち、逆戻りすることを知ること。

そして断酒を継続するためにはアルコールアノニマスAA
とか、断酒会に参加することだ。








足立野宿者支援の会「さくら」(会長貴島健二)といい

この活動のモデルになったのは聖イグナチオ教会(麹町)
にある「四ツ谷おにぎり仲間」だ。この会はおむすびを作って
路上生活者に配って歩いていた。

後を引き継いだのはシスター中村訓子(のりこ)たちだ。
中村はベリス・メルセス宣教修道女会に所属している。









--続く

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野宿者支援活動 さくらの会(1)

ボランティアグループ「さくら」

荒川河川敷で毎月第1日曜日の午後、昼食を食べながら
野宿者と歌を歌ったり、話しあったりしているボランティア
グループがある。

足立野宿者支援の会「さくら」(会長貴島健二)だ。
活動を開始したのは2003年で今年で14年続いている。

キリスト教団体の給食活動には説教が付き物だが、
ここには主催者の説教はない。

むしろ参加した野宿者が自分の考えや気持ちを話すように
求められる。

ホームレスになると社会的なつながりが断たれてしまい勝ちだ。
そのつながりを皆の前で自分の考えや気持ちを表現することを
通じてその失われたつながりを少しずつ育てようという狙いだ。

荒川河川敷の青テント

「さくら」は一人のナースが始めた野宿者訪問活動の
中から生まれた。

当時、東京足立病院(足立区保木間)に勤務する
ナース佐藤真子(まこ)は通勤の電車が荒川鉄橋を
通過する時に河川敷に多くの青テントがあることに
気が付いていた。

佐藤はアルコール専門病棟で働いていた。彼女が接する
患者の中にも路上生活をしていて倒れ、病院に担ぎ込まれた
患者が少なからず存在した。

病院の中でアル中患者が来るのを待っているだけで
いいのか、佐藤は毎日、鉄橋を渡るたびに自問自答を繰り返した。

あなたも同じようにしなさい

佐藤はキリストを信じていた。
イエスは強盗に襲われて半死半生で道端に倒れていた男を
介抱したサマリア人のたとえ話をした後で「あなたも出て行って
同じようにしなさい」と教えていなかったか?

佐藤が考えたのは病院でいわば出来上がったアル中患者が 
やって来るのを待っているだけではダメだ。
テント生活をしている人々のところへこちらから出かけて
行こうと考えた。佐藤はナースだから野宿者に対する医療相談、
特にアル中の予防、回復を活動の中心にすえた。

テント巡回を開始

佐藤はシスター勝谷久子(日本援助修道会) と二人で
河川敷のテント巡回を開始した。

ナースとして佐藤はこれまで暴れる患者、死に際の
患者など通常の人間が体験しないいわば人間の
裏面に数多く接して来た。

そんな佐藤でも高い草の生い茂る河川敷に最初に
分け入るのには勇気がいった。

四ツ谷おにぎり仲間

この活動のモデルになったのは聖イグナチオ教会(麹町)
の信徒グループ「四ツ谷おにぎり仲間」だ。
この会はおむすびを作って路上生活者に配って歩いていた。

佐藤らもおむすびを持って河川敷を歩き始めた。
野宿者の集会を開くようになると、佐藤は箱に入ったトマトを
持ってきて配っていたが、 カレーを作るようになった。
レトルトではなく、カレー粉から全部自分で作った。
貴島会長もそのカレーを食べた一人で「あのカレーはうまかったね」
と今でもなつかしがっている。

ナース佐藤の急死

しかしナース佐藤は頑張り過ぎたのが災いしたのか、
わずか数年の活動で急死(2002年8月)した。

後を引き継いだのはシスター勝谷、 
 シスター中村訓子(のりこ)たちだ。

シスター中村訓子 Sr.Nakamura Norikoは べリス・メルセス宣教修道女会に
所属している。中村は修道院を出て、仲間のシスターたちとアパートに
住みながら 山谷の日雇い労働者を相手に1985年以来 支援活動(ほしのいえ
を続けていた。

専門家の協力

医療専門家も協力してくれた。
東京足立病院のドクター佐藤(アルコール依存症)
東京武蔵野病院 ドクター花田(音楽療法) 

現在の主なメンバー

現在は足立区によって認定されたボランティアグループだ。
常時活動しているボランティアは会長の他に高澤(顧問)、
けら(事務局)、山本(会計)、水上(役所手続き)、
友澤(ブログ)が中心だ。

--続く

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